北大路魯山人、平野雅章『魯山人味道』

北大路魯山人海原雄山のモデルであるというのはつとに有名な話で、海原雄山がキライ(というか『美味しんぼ』がキライ)な私としては、いけすかないジジイだと思っていたわけですよ。同じいけすかないジジイでも、内田百輭は愛すべきジジイで、魯山人はなんかもうムカつくジジイだと。著作を読んだこともないのに、海原雄山のイメージと、あとこぼれ聞いたエピソードだけでそう思ってた。

魯山人味道 (中公文庫)

魯山人味道 (中公文庫)


まあ、予想には違わず、いけすかないジジイであったことは間違いない。うまいまずい通か通じゃないかを論じるのって、一見高尚な気もするけど、実はわりと恥ずかしいことですよね、いや、私もやるんだけどさ*1。まあでも魯山人は「わかっててやってる」「そんなとこ超越してる」わけだきっと。その点、『ご馳走帖』に食べたいものを思うがままにズラズラ並べた、無邪気な園児がそのままジジイになってしまった(ように見える)百輭先生の方が好感が持てるわけなんですけれども。まあアレだ、「これはウマい(デレー)」「これはほんものの日本料理じゃない!(ガシャーン!)*2」とかやってる魯山人よりも「猫ねこねこねこぬこノラノラニャー(デレー)」「乗り物乗り物乗り物汽車汽車!(フゴー!)」ってなってるのがバレバレな百輭先生の方が、私はわかりやすくて好きだってことです。スキキライの問題です。

ストイックに洗練された通人よりも、自分の嗜好*3全開なオタクが好きってことかなあ。百輭テツヲタだし。つうか、どっちも100パー自分基準なんだけど、当たり前のことを当たり前に「こうあるべきである。道理というものをわかっていない人間が多すぎる」*4とか言う人よりも、「だって俺はこういうのがスキすぎる」っていうのがモロバレな人の方がイイですよ。かわいらしいですやん。そう、可愛げ、可愛げの違いかなあ。魯山人はイイこと正しいことを言ってるんだけど可愛げがないんですよ、自分以外をケナしすぎるし。まあ別にこの人は「他者を貶めることで自分を高めるタイプ」だとは思わないけども、多分カシコすぎて周りが皆バカに見えるんだろう。自説が時に極論すぎることに気づいてるフシもないこともないですが、自分のじいさんだったら嫌だな(百輭も身内だったら問題アリだけど)(意外と孫にはメロメロだったらカワイイけど)。

までも、魯山人がとにかく鮎とフグが好きなことはわかった。大体さかなのうまいまずいに一体何ページ割いているのかこのひとは。最後に、巻末あたりのアフォリズム集から、さかなに関する一節。

さかなを焼く時は……、
さかなというやつは面白いものだ。じっと目を放さずに見つめていると、なかなか焼けない。それなのに、ちょっとよそ見をすると、急いで焦げたがる。

あれ、結構かわいいな(きゅん)。

*1:これを辻静雄さんは本当にうまいことやってのける。フランス料理だよ? なんか下手したら即「気取ってる俗人」に見えちゃうのに

*2:実際にひっくりかえしたりはしません

*3:現代オタクに関しては、嗜好にもよるんだけど

*4:もちろん「当たり前のことを当たり前に」することは難しく、本当に尊いことだけれども