『ラストサムライ』雑感その2

hilacchi2003-11-24

私は司馬遼太郎が大好きで、どれくらい好きかというと、雲仙普賢岳大噴火の時も阪神淡路大震災の時も他のどんな災害に関しても一切寄付なんかしなかった*1私が、「東大阪司馬遼太郎記念館を建てます」でコロリとペロリと1万円寄付してしまったくらい好きだ。あと、司馬遼太郎の本を読む、というのは自分で「ライフワークだな」とか思っているわけですが、作家本人は既に亡くなっているので、全著作がいくら多くても、いつか読み終わる日が来るというのが少し寂しい。まだぜんぜん読み終わってないのに、その日のことを思うと寂しい。それくらいラブ。

戦後続いた教育のせいだか、日本の現状を見てそう思うのかなんだか知らないけど、たぶん、今の日本人*2は、自分が日本人であることにあんまり誇りを持ってないと思う*3。もう卑下はしてないとしても。でも、司馬遼太郎の作品*4を読むといつも、こんな日本人もいたんだ、という発見がある。もしかしたら自分は、自分の日本人としてのルーツに誇りを持ってもいいかもしれない、いいのかな、いいんだー!!という気になれる。それくらい、シバリョーの描く日本人はスケールが大きくて、可憐で、サワヤカで、うつくしい*5。日本の近現代史をあいまいにしか知らなくて、なんとなく50年ほど前に日本が「やらかした」ことは知らされてて、それを負い目にいつまでも卑下するよりは、まったく健全な気持ちではなかろーかこの誇りは。

ラストサムライ』を観た後の感じは、その、シバリョーの読後感になんだか似ていた。

自分が今ここにいるということは、必ず「きっちり生き残った先祖」がいるってことで。そんで4代ばかり遡ればもう江戸時代で。ああいう規範の元に自分を律して生きていた人がもしかしたら先祖にいたかもしれない、ということはそれはもう誇ってもいいことだ。日本人は、この50年間世界からイジられすぎてきたせいでもう「自分はイジられキャラ」と思いすぎていたよ。すぐ「本音を言わない」とか「あいまいに微笑む」とか「メガネで出っ歯」とかヤユされがちだし、映画でも何度もそういう風に描かれた。特に私は『グランブルー』に出てくる日本人はあまりにあまりだと今でも根に持っている。

で、『ラストサムライ』。戦後ずっとハリウッド含めた「外」からイジられてきた日本が、初めて正当に描いてもらえた、と日本人が感じる映画なんじゃないでしょーか。いや、日本人全体がどう感じるかはわかんないな、でも少なくとも私はそう感じますよ。

*1:いばれることではない

*2:私も含めて

*3:日本の工業製品とマンガは、世界に誇れると思うんだけどね

*4:日本史ものに限る

*5:もちろんそうでない人も出てくるけど